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あの有名人も頭痛に悩んでいた
モーツァルト樋口一葉フロイト石川啄木後白河法皇┃バルザック┃バーナード・ショー芥川龍之介
パブロ・ピカソルイス・キャロルフィンセント・ファン・ゴッホチャールズ・ダーウィン曹操

バルザック
(6)バルザック 人並外れた創作意欲と遊びは小説以上の人生だった

集中した執筆活動と借金苦が頭痛の原因?
『ゴリオ爺さん』、『谷間の百合』など「人間喜劇」と呼ばれる数多くの作品群を発表した19世紀を代表するフランスの文豪バルザック。現代小説の創始者と言われフランス文芸家協会初代会長に就任していた彼ですが、その波瀾万丈な生活はいつも頭痛が絶えない日々を過していました。
彼は20代に出版業、印刷業、活字鋳造業など事業を起こしましたがことごとく失敗し多額の借金を作り、その返済のため執筆活動を行いました。
彼は毎日コーヒーを何十杯も飲みながら眠気を払い寝る間も惜しんで集中して原稿を書き続け、作品を書き上げた後はサロンなど社交界に出入りをして音楽家のショパンや彼の恋人の女流作家ジョルジュ・サンドらなどと交流を深め、大食いをして豪遊、浪費を重ねさらに借金を増やしていました。大食漢と言われたバルザックは一度に100個以上の牡蠣を食べたと言われています。
バルザックの場合は多額な借金によるストレスと不安が精神的な刺激になり筋肉が緊張する「緊張型頭痛」だったと考えられます。またコーヒーを飲み続け集中した執筆活動は長時間同じ姿勢をとり続け血流を悪くし、さらに頭痛をひどく長引かせていたのかもしれません。


はじめての結婚は亡くなる4ヶ月前
バルザックは女性遍歴も波瀾万丈で、数多くの家庭のある貴族階級の年上の夫人と交際をしていました。中でも母親のように愛した『谷間のゆり』の主人公モルソフ伯爵夫人のモデルと言われている22歳年上のベルニー夫人には事業を起こす際に経済的援助をしてもらい、彼女を通じて作家ヴィクトル・ユゴー、画家のドラクロワらと交流が深まりました。その後も彼は何人もの伯爵夫人、侯爵夫人と交際を重ね最後には1850年バルザックが51歳の4月、ロシア貴族の未亡人ハンスカ夫人と人生ではじめての結婚をし、前夫の莫大な遺産のよりにバルザックの借金は清算されました。しかしバルザックはその年から風邪をこじらせ体調を崩し、結婚後も病状は更に悪化、8月18日に亡くなります。彼の死因は食べ過ぎによる糖尿病とも言われています。最後の言葉は「ビアンション!ビアンションを呼んでくれ! あいつなら、私を救ってくれる…」と彼が書いた小説に出てくる医者の名前を呼び続けました。


本当の彼の姿を表現したロダンの「バルザックの像」
バルザックと言えば「考える人」のロダンによる彫刻「バルザックの像」も有名です。
バルザックの死後、1891年フランス文芸家協会は彼の功績を讚え「バルザックの像」を製作することになり彫刻家ロダンに依頼しました。ロダンは積極的に彼に関する作品資料を読み込み、彼の生家を訪れ、彼の体形に似た人物をデッサンし、予定の製作期間より長い7年間の歳月をかえて作品を仕上げました。できあがった作品は寝巻きのガウンを着て書斎を歩き廻りながら小説のアイディアを考えている姿のバルザックでした。ロダンは深夜、闇の中に立ちつくし、闇を見つめひとり自問を続ける姿こそ本当のバルザックのそのままの姿という想いで制作しましたが、世間では「失敗作」と酷評され、優雅な姿のバルザックの像を期待していたフランス文芸家協会はその像を、バルザックの名誉を損なうとの理由で引き取りを拒否。引き取りを拒否された石膏像はしばらくそのまま彼の家に保管されました。しかし、ロダンの死後、弟子や友人の働きかけでロダンは数多くの人達に支持され、彼の功績は高く評価されました。バルザックの像はその後、1939年、パリ市民の募金によりブロンズに鋳造され、ラスパイユ大通りにブロンズ像が設置されました。
ロダンがバルザックの像を制作する過程は作家・吉行淳之介の父、日本のダダイスト詩人で小説家の吉行エイスケの小説「バルザックの寝巻姿」にも詳しく書かれています。

出典:日本バルザック研究会・バルザックホームページ
緑風舎Wiki書評 リルケ「ロダン」より

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